Belly DanceColumn

無題

まずは、今の時代にこそ必要なメッセージを発信し続けてくれていた人がこの世からいなくなってしまったことをとても残念に思います。

人気漫画『セクシー田中さん』の著者であり、同ドラマの原作者である芦原妃名子先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

この衝撃的な訃報に一個人としていろいろ揺さぶられているので…

頭と心を整理するために、この気持ちのもやもやを雑多にですが書いておこうと思います。

いまの社会構造の残念さ&個の力の無力感

個々の幸せとは何か?を創作活動を通じて発信している人が、その才能ゆえに資本主義社会の被害者となり潰されてしまったこと。

多くの女性の価値観を変える作品を描ける人でありながら、本人の才能とは別の部分で、死を選ぶ以外どうにもならないと感じさせるものの怖さ。

相変わらずなテレビ業界

どんなに良い作品も、視聴率が取れるただのコンテンツとして平気で使い捨てようとする、クリエイターへの敬意のなさ。

自身の経験も含め、他人が一生懸命作ったものを勝手に使ったり、一方的な都合で無遠慮におもしろおかしくこねくり回すことはテレビなどマスメディア業界では相変わらず横行してて、いまだにこんなことやってる人たちがいるのかよ、と。

やっぱりテレビは嫌い。

作り手側の気持ちになって想うこと

産みの苦しみ。命を削って生み出している自分の分身のような作品が、それを軽んじる他人に歪められて利用されようとしていることへの憤りと悲しみ。

敬意ない修正なんて一番やっちゃいけないことなのに、そんなこともわからない人たちに大事な作品を預けなければならなかった心情。

それでも死というかたちでしか作品を守れなかったのだろうということ。

そんな大事な原作を未完のまま終わらせてしまう無念さ。

私たちがドラマを楽しみにしていたとき、原作者としてどれほど悩み葛藤していただろうと。

こんな結果になるために、ドラマ化を引き受けたんじゃないはずなのにね。

ベリーダンスに救われたひとりの人間として

『セクシー田中さん』の著者は生きづらさの本質とそれを癒す方法を知っていた人。

ダンスを通じた自己表現によるエンパワメントを、作品を通じてわかりやすく言語化して伝えようとしてくれていた人。

表面的な「ベリーダンス!楽しいよ!」ではなくて、ちゃんと本質に踏み込んで丁寧に描かれてたことも、ベリーダンスに関わる女性たちの代弁者のようなキャラクターが丁寧に描かれていたことも、ベリーダンス業界の人間としてとても嬉しかった。

だからこそベリーダンスを知らない多くの人の心にも響いたんだろう。

実際に長年ベリーダンスにかかわっている人は、田中さんのようにベリーダンスに救われた人が多いと思う。

私もそのひとりだし、Oriental Dance Therapyだってまさにこのコンセプトで立ち上げたスタジオです。

そんな著者が追い込まれて死を選んだという事実。貴重な理解者でありどこか同志のようにも身近に感じていた存在が、これ以上伝えることを諦めて自死してしまったという事実は、希望や支えの一つを失ったような喪失感があるし

「あれ、これ自分も同じようなところに辿り着くんじゃないか?未来は明るくないんじゃないか?」とふと頭によぎる。

マンガの読者として

傷ついた人やマイノリティ側の心情に寄り添った作品を描いてきた芦原先生。

自分の経験と重ねて共感できる部分も多く、自分が感じてきたこととそこから救われた過程をマンガとしてあらためて追体験させてもらっているような…それが過去の傷つき体験の癒しになっていたりしたのにな。

もう読めないことがとても残念。

それでも

人の死について多くを語ることはあれだけど、個人的にこの方は「肉体の死をもって最後まで自分の信念と作品のメッセージを守ろうとした」のだろうと感じました。

自殺という選択は弱い人がすること、というイメージがありますが、それ以外に自分の信念を守る方法がなかった(すくなくとも本人はそう感じていた)というこの方なりの戦い方だったんだろうと。

共感している他人の死に意識を向けすぎることは危険です。どうしても引きずられちゃうから。

それでも共感せずにはいられず、目を離すことができず、どこかで「私もその立場になったらその選択をするかもな」と思ってしまう自分もいます。

それはもう誰かがこう言ったから、とかもっと周りの人がこうしていれば、とかのたられば論ではなくて、最終的には自分がどう生きたいか?どんな状態なら生きている意味がないと感じるか?の価値観の問題。

この方にとっては「SNSで批判されて傷ついた」とか以上に大切にしていたこと…「今の社会システムの中では一番大事なものを守るためにはこうする以外どうにもならない」という信念のための選択だったのではないかと、そう思わざるを得ません。逃げではなくて、戦ったんだと勝手にですが思いました。

死はネガティブなものとして語られることが多いけど、私自身は本来の死はネガティブでもポジティブでもないと思っています。

それに意味を見出すのは本人であり、「信念を持って生きること」には死に方を選ぶことも含まれるんだろうと。

これは、他人の死を一方的にネガティブなものだと意味づけする他人にはとうていわかりえないもの。

でもこの方の死に引きずられて他の人が死を選ぶのは「信念のない死」だと思います。

そして今度はまわりの正義ぶった他人が犯人探しをして、頼まれてもいないのにまるで報復のように数の力をもって次の誰かを死に追いやってしまったとしたら…それもまた「信念のない死」です。

もしこの方が信念を守るための死を選んだのだとしたら、自分のせいで他人が信念のない死を選ぶようなことは望んでいないはず。

そんなことは芦原先生が理想としていた世界と作品に対する冒涜だとすら思う。

『セクシー田中さん』という未完の作品からずっと発せられていたメッセージは、

「まわりの人からどう思われても、自分がどうありたいかの信念を大切に行動しよう」

「自分を助けられるのは自分」

「自分を好きでいるために、何度でも立ち上がって前を向こう」

という、自己肯定感の低い大人たちへ繰り返される応援メッセージでした。

そんなことを作品を通じて語りかけている人が自死を選んだ理由は、けっして逃げや負けやではないと、少なくとも私はそう思いたい。

まとまらないけど。

これは私自身を救うための書き出しであり、いま深くショックを受けている人への共鳴です。

ただ悲しいだけの出来事として目の前を通り過ぎさせるだけではないなにかに昇華していけたらと思います。

余談ですが。

宇宙には「キロン(またはカイロン)」と呼ばれる小惑星があるんだけど、これは占星術の世界では「傷ついた癒し手」と呼ばれます。

ずっと、この人の生み出すものはそういう印象があるなと思ってたけど、あらためてそう思いました。